ぽに平野

インターネット

Amazonにいる堺正章「星三つです...」

こんにちは。poniyamaです。今日は様々なサイトに存在するレビュー、評価について書こうと思います。アニメの話はしません。おたくではないので。

 

ユーザがレビューや評価を付けるシステム、良いですよね。提供者(メーカーやお店)はもちろん宣伝の時点ではいいことしか書かないので、レビューによってユーザの視点から多角的な判断が可能になるのは大変ありがたいです。

 

僕はamazonで何か良い値段する買い物をするときはユーザレビューを100時間くらい読み込むのですが、それを読んでいてかなり自分の感覚と異なるレビュワー(レビュワーって単語面白いな。ビュワ~って感じが。)がいるなと感じたのでなんとなくそれについて書こうと思います。オチもなく「圧勝レビュー読み塾!」「モテまくり勝ちまくり(例の画像)」みたいなこともないフワフワした記事なのでそんな感じで読んでください。

 

レビューと言っても飲食店評価やガジェット系の評価、観光地の評価では全く話の階層が違うと思います。まずはガジェット系について書きます。

 

僕はすごくデジモノが好きで、家族の誕生日よりgigazineやgizmodoの過去記事の方が覚えている終わっている人間なのですが、先述の通りAmazonのレビューめぐりみたいなこともよくします。その中で、僕が鉄則だと思っているのが☆4評価と☆3評価を熟読するということです。なぜなら僕はプロダクトの評価というのは以下に示すような基準で書かれていると考えていたからです。

(ところで「デジモノ」ってもう死語ですか?「ガジェット」よりもいろいろなものを含意している感じで好きなんですが最近全然見ないですよね)

 

☆5 全く問題ない。良い買い物をした。

☆4 想定していた使い方に問題はない。しかし少し気になる点がある。

☆3 使用はできる。しかし使用感に難

☆2 製品として大きめの欠陥がある

☆1 そもそも使えない。または致命的な欠陥がある

 

我々が検討すべきはその製品に関して生の不満や注意点を知ることができる☆4、☆3帯であるのは明白です。製品の良さをしっかり理解しながら、注意点や減点を詳しく説明している方が多く、重要です。☆2、☆1帯があまり重要にならないのは、ユーザの質が良くないという問題があるからです。感情的に書いていて論理的に欠点を検討している人が少ないように感じられます。そもそも製品がダメダメだったらレビュー分布の形(あの階段状のやつ)でわかるので良さそうな製品を見ているときにあまり読むことはないでしょう。

 

しかし、不思議なことに☆4帯、☆3帯にも「全く問題ありません」「ちゃんと使えてます(^_^)」などのレビューがぽつぽつと存在するのです。これに強い違和感を感じます。え、なんで問題なく使えているのに満点から減点されているの?もし何か気に入らないことがあるんだったらそれを書いてよ。レビューってそういう場所でしょ!!ねえ!!本当は☆5なんでしょ!!嘘だと言ってよバーニィ!!!と発狂してしまいます。

 

おそらく彼らの評価は☆3が±0、そこから欠陥があればマイナス、予想を上回る感動があればプラスという構造になっているのでしょう。これが僕らとの決定的な違いだと思います。後述しますが、これは食べ物やレジャー施設の評価軸と同じ基準を採用しているせいでこのようなことになっているのだと考えられます。しかし、プロダクトは予想通りに動くということが完全な状態なので、自分が予想した機能が正常に得られ、そして使用感も問題がなければ☆5がついて然るべきだと僕は個人的に思います。

 

次に食べ物やレジャー施設におけるレビューの評価軸について述べます。これはデジモノの評価とは大きく異なるでしょう。なぜなら、食べ物やレジャー施設に我々が求めるものは「予想を上回る感動」だからです。初見の店にラーメンを食べに行ってまあ「ラーメンってこうだよな」と思ったらそれは最高得点にはなりません。遊園地に行ってアトラクションに乗って「まあジェットコースター(や観覧車)ってこうだよな」と思っても最高得点は得られないでしょう。基本的に外食はおいしいものを提供する場所であり、レジャー施設は感動を提供する場所であるので、想定を上回ることが必要だと思います。なので評価基準は以下のようになるでしょう。

 

☆5 味や体験において予想を上回る感動を得た。他に嫌な思いも全くしなかった

☆4 ある程度予想を上回る感動を得た。もしくは大きな感動があったが減点要素もあった

☆3 予想通りだった。もしくは感動を得たが減点要素があった

☆2 予想以下だった

☆1 予想以下かつ不快な思いをした

 

このようにプロダクトと食やレジャー施設は大きく異なる評価基準を有していると考えられます。しかしこの基準、またはプロダクトの基準を使い分けずどちらか同じ基準を採用する人が存在しているのです(以上に述べたものが「正しい」という話ではなく、おそらくこういう基準が一般的(もしくは適切)だろうと僕が勝手に言っているだけなので別に責める意味はありませんが)。この状態が最初に述べたレビューの混線を引き起こしているのでしょう。

 

最近は中国企業製品の☆5評価にめちゃくちゃ中国人のサクラがいるのも問題なので、より精度の高いレビュー読み技術が求められます。本題から外れてしまいますがサクラを見分けるレビュー読みについても書きましょう。テクニックとしては、口調の一致、俗用されている口語的な表現を使っているか、句読点の打ち方は適切か、助詞をうまく使って文を構成できているか、係り受けは適切か、良かった点の理由付けは記されているか、という点を意識することが重要です。その点を意識して読んでみると本当に製品を買って喜んでいる日本人なのかどうかが浮かび上がってきます。例としてamazonでめっちゃ売れてるBluetoothイヤホンのサクラっぽいレビューを挙げてみます。

 

満足、大オススメです!
もう一週間に使ってみました。
使いやすく、音質も問題がないです。
バッテリー容量がかなり大きくて、スマホの充電もできて嬉しいですね。
両耳モード、片耳モードとも問題なく、簡単にペアリングできます。
デザインもシンプルで、高級感に見えますし、大満足です!

 

まず読点が多すぎます。この時点で怪しいですね。「大オススメ」という表現にも違和感がありますね、破綻してはいないもののあまり多用される表現ではないでしょう。おそらく「オススメ」の意味はわかっていて、大が強調を表すこともわかっているのだけれど、日本語におけるあらゆる単語の俗用の範囲がわかっていないためにこうなっているのでしょう。

 

「もう一週間に使ってみました」もおかしいですね。これは先述した助詞をうまく使って文を構成できているかという点で見抜けますね。それと「使ってみました」なのに「もう」というのも意味がちぐはぐです。

 

「問題がないです」もとてもサクラ文に見受けられる表現です。先述の通りもちろんプロダクトにおいて問題がないことは重要なのですが、サクラ文では用いられるタイミングやニュアンスがおかしい傾向にあります。音質は一般的な表現では「良い」「悪い」という尺度によって語られるので、音質が問題ないというのは少し怪しいです。それと問題「が」ないですというのも口語的な表現ではないですね。というか文法的に間違っているでしょう。試験の時に問題文の紙だけ配布されなくて「先生、問題"が"ないです」と言うことはあるかもしれませんが(つまり選択肢の中としての「問題」)、「問題ない」と言うのが普通で、言ったとしても「問題はありません」でしょう。

 

「バッテリー容量がかなり大きくて、スマホの充電もできて嬉しいですね。
両耳モード、片耳モードとも問題なく、簡単にペアリングできます。」

この部分は微妙ですがおかしいでしょう。「かなり大きくて、~~~できて嬉しい」はこう書く人もいるかもしれませんが「かなり大きいので、~~できて嬉しい」もしくは「かなり大きく、~~できるので嬉しい」の方が自然です。

 

最後、これは完全におかしいですね。「高級感に見えます」とは言いません。単なる誤字かもしれませんが、ここまでグチャグチャで最後にこれだともうトドメですね。高級感という単語が購買層にいい影響を与えるという統計的なデータから頻出するのかもしれませんが、こういう頻出ワードを見かけたら疑った方がいいです。大満足も同様ですね。語彙が少ないというのはサクラレビューを見分けるのに重要です。

 

抽象的な説明になってしまいますが、サクラレビューってやっぱりブツ切りなんですよ。問題ない、カッコイイ、おすすめ、満足という情報が並べられているだけで、本物の日本人レビュワーにある「文の流れ」「起承転結」みたいなものが全くないんですね。その点も意識して読んでみてください。

 

もう何の話題なのかわかんなくなってしまいましたが、僕はレビューをたくさん読むタイプなのでレビューについて思ったことを書いてみました。マーケティング戦国時代、信じられる情報と信じられない情報は自分で見分けていくしかありません。

 

うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい

 

それでは皆さん良いレビュー読みライフを

ファミチキ(遺伝子バリバリ組み換え)

こんにちは。早寝しようと布団に入ったら全く寝られず、結果こんな時間になったのでもう諦めました。人間は睡眠とかいう意識的に制御できないメンテナンスシステムを走らせないと体を維持できないスーパー冗長な仕組みをなんとかしてください。スマホはいつでも再起動できるし、Androidならいつでもソースごとデバッグできます。スマホを見習え。

 

それと別に今日は睡眠の話はしません。今日は肉食について書きます。なんとなく考えていたので。

 

以前友達とピーター・シンガーの動物開放論について話していた時、やっぱり工場畜産ってよくないけど肉食べたいよねって話がありました。工場畜産って良くなさそうですよね。明らかにその動物は苦を感じる状況に置かれ、最後には殺されてしまいますから。功利主義的には良くないと思います。

 

そこで思ったのですけど、「完全に苦しみ感じることのない食肉改造動物」を造ったらそれって動物倫理的に良くないんでしょうか。遺伝子レベルでそもそも苦を感じない、いや、脳みたいな部位がほとんどなく、ただ可食部が細胞分裂して増大していくタイプの完全食肉改造動物を造るの、どうでしょうか。直感的にはなんかよくなさそうですよね。たぶん一般的な良識のある大人に話したらめちゃくちゃ怒られると思います。でもこれの"良くなさ"ってよくわからない気がするんですよね。良いじゃないですか。動物は苦しくない(いや、そもそも苦しさというフィールドに立っていない)し、食肉は得られる。そもそもシンガーは「ある存在が苦しみを感じることができる限り、その苦しみを考慮しないことは道徳的に正当化できない」としています。なら食肉動物を苦しみというフィールドから移動させればいいんじゃないの?ジェレミーベンサムの主張をより先鋭化させれば全然いける方向性だと個人的には思います。

 

考えられる反論は「そもそも改造動物を造り出すことが問題だ。人間の勝手で動物の命に介入してはいけない」というものです。でもこれって危うそうですよね。植物は改造植物のオンパレードです。皆遺伝子組み換えで害虫に強くなった植物を笑顔で食べています。「いや植物はそもそも意識もないし脳もない」という意見も聞こえてきそうですがこれは完全に棄却できると思います。改造動物を作るとしたら絶対に遺伝子操作が出発になります。生まれてきた子牛の頭をブチ抜いたりしません。これだと出発点は植物と同じになります。遺伝子を採取された動物は「ん?何?」って感じだし、生まれてきた食肉動物は「.............」って感じです。ここに何も問題はない気がします。

 

それと、あえて言うのであれば、種が種へ介入することは、地球上で「淘汰圧」という形で日常的に行われてきました。なぜあえて言ったのかと言うとこの一文は逆説的に倫理の深入りを棄却できる装置となりうるからです。つまり「種の、他種への介入は生態系の破壊など外的なものが主であり、遺伝子の操作などの直接の介入は別である」と反論したとします。外的な介入と生命の根幹への介入、一見これは大きく異なるもののように考えられますよね。しかし何が違うのでしょうか、いえ、むしろ外圧として種の在り方に影響を与える方が、遺伝子そのものを操作して数個体のみを別のものへと変えるだけの分水嶺のような技術よりも邪悪ではないでしょうか。ここで僕は今恣意的に邪悪と言いましたが、このように、良い、悪い、の規範倫理学的な沼に突入してしまいます。動物倫理においては本旨ではないでしょう。よって種の種への介入という観点からの反論は現在取り合うべきではないと考えられます。

 

約束のネバーランドにも(以下ネタバレ有り)下等農園では意識すらない人肉が育てられているという一節がありましたが、このシーン僕的にはけっこう違和感があったんですよね。意識なく育てられている「人肉」のことを考えて、エマやレイは血の気が引いていました。いや気持ち的な意味ではわかりますよ。同種がそんなことされていたらまあ嫌でしょう。でもそっちの農園の方が倫理的ですよね。彼らは現代の家畜よりもはるかに"何もわからず"、ただ出荷されていくだけなんですから。高い知能のもと食われることに気づいてしまったエマ、レイ、ノーマンの方がずっと悲惨です。

 

ちょっと話逸れるんですけど、グレイスフィールドを始めとした各高級農園、「農園」のカラクリに気づいた瞬間に開放して人間界に帰してあげたら倫理的かなとちょっと思ったんですよね。気づいた人間は殺されるレールから外れ、気づかなかった人間は幸せな世界を見続けて瞬間的に殺されて出荷される。ベンサムの家畜論からいけばけっこう倫理的な人肉農園の運営にならないかな、と。でもこれ大きな問題があって、気づいちゃった側は「気づかなかった兄妹」が殺されてしまうんですよね。気づいた時点で皆に教えたら農園の運営は壊滅するし、教えなくても「気づいたあなたは出荷しないよ」と帰してあげたら「兄妹達が!!!!」ってなってしまって全然幸せじゃありません。この方向性はだめそうですね。う~ん。

 

約束のネバーランドってかなりそういう動物倫理への痛烈なメタファーになっていて、考えさせられる作品なんですよね。農園から逃げた時に助けてくれた人間を食べない鬼もまさにその手の 宗教的主義を強くイメージしていますし、特にコニーが最初に殺されるシーンもあれだけ怖く描かれているものの(いや、普通に愛するハウスの兄妹が殺されていたら怖いけど)、ユダヤ教のカルシュートにおける「屠殺は人間が動物を殺す上で最も慈悲深い方法をとらなければならない」のように、心臓を一突きと苦しまないような生物への慈悲が感じられます。(いやまあ傷をつけないようにとか実務上の問題はあるだろうけど。)

 

 (ネタバレ区間終わり)

 

だいぶ話が逸れましたが、やはり改造動物を作って肉を増やすということの倫理的な問題ってあんまりなさそうですよね。直感的になんか嫌だっていうのはありますけど(僕はありませんが、、)。でもこの嫌さってなんなんですかね、命をいじることの良くなさって度々議論されていますけど、あんまり僕にはわかりません。例えば人間の遺伝子組み換えって聞くとたぶん大勢の人が嫌な顔をすると思います。でもそれで失敗してバケモンになることとかがありえなくて、完全に確立された技術で「花粉症にならない」とかなら全然遺伝子組み換えしてほしいと思いますけどね。予防注射と一緒では?たぶんこの嫌さって命をいじるとかそういうことよりも単純に未知の技術すぎることへの 畏怖でしょう。たぶん50年後の若者は僕らがスマホで読書するのと同じ感覚で脳にコンピュータをぶっ挿せると思います。

 

この感覚的な問題が時間に回収されれば改造動物の肉を食べて倫理的なステーキを食べられる日が来るのでしょうか。なんかそれより先に植物由来の合成肉ができそうだけど。

 

なんかダラダラ書いたせいでまとまりのない文章になってしまいました。食肉の話なのに結局途中でマンガの話してるし(おたくがよ)。食肉改造動物賛成、反対とか思うところあったらコメントください。

 

僕はAKIRAクライマックスの鉄雄のように、無意識で増殖する"牛肉"がスーパーでグラム100円とかで売られる日を待ってます。それではまた次回。

 

 

 

 

 

白人、黒人、野菜嫌い人

世の中はとても良い方向に動いています。差別を無くし、偏見を正し、各人が自分らしく生きられる世界を作ろうと皆が考えています。

 

性別も男女の二値ではなく多様な状態が存在し、自身の性別が何であろうと好きになる相手は自由であり、信仰する神は制限されず、表現や思想も抑圧してはいけないという考えが社会に伝播し始めています。人と人が違うのは当たり前のことであり、その多様性を認め合って生きていくのです。素晴らしいじゃないですか。

 

こんな良い流れ、かつての社会にあったでしょうか?いえ、なかったと思います。僕はなんて素晴らしい世の中になってきたんだと目頭を熱くしながら生活しておりました。

 

この素晴らしい世界で気持ちよく生活していたある日のこと、僕が「野菜食べられないんだよね」と言ったところ「この歳にもなって野菜食べられないのはみっともない」と返されました。

 

え?

 

いや、待ってください、ひどい攻撃です。野菜を食べられないことが悪いことなんですか?野菜は健康に良く、食べなければならないという価値観を押し付けられ、僕の野菜を食べることができないという個性を否定されました。傷つきました。ツイッターに4枚スクショで長文を投稿します。

 

冗談です。でも野菜嫌いってなぜか人権ない感じですよね。これがとても不思議です。野菜嫌いが許されない要素を検討していこうと思います。おそらく野菜嫌い糾弾の論拠は大別すると二つだと思います。「栄養バランスが偏り健康を害す」「会食などの席で出された食事を食べられないのは失礼」

 

まず前者についてです。程度にもよるとは思いますがこの問題はテクノロジーで破壊できると思います。まず、完全に野菜を何も食べられないならまだしも特定の野菜が食べられればそれのローテーションで栄養を得ることができます。現に僕もほうれん草や白菜やキノコは調理してあれば大丈夫なのでそれで生きていけそうです。そして、全てダメだったとしても野菜ジュースとマルチビタミン剤、完全代替食(COMPやsoylent)などがあるのでそれで生きていけると思います。仮に世界がぶっ壊れて野生の中で生きていかなければならなくなった場合は、そのような製品に頼れなくなるかもしれません。やばい、どうしよう、野菜が食べられないがために、、、いえ、その時は野菜が食べられないとか以前の致命的な外圧によって死ぬと思います。

 

次に後者についてです。これは少し難しいです。コース料理などを頂く席で自分だけ「このサラダ食べられましぇ~~んw部長代わりに食べてw」とか言っていたら店を追い出され食だけでなく職まで失うかもしれません。しかしそこで非難すべきは野菜を嫌いであるという性質ではなく、野菜を食べられない故に場を乱すことです。スマートに断ったり、表情を無にして喉の奥に押し込む技術さえあれば野菜嫌いという性質そのものは問題ではありません。そもそも、個人の性質上食べられないものを食べさせ、嫌がったら失礼という考えが根源的な問題です。男性恐怖症の女性が業務上の男性を含む会食で心労を負うことについて「男が怖いお前が悪い」というのは大問題になると思います。我々も、「野菜が嫌いなのに、コース料理でメニューが決まっていて大変だったね」と労われるくらいが正当でしょう。

 

 そもそもこの乖離は「野菜嫌いは甘えた選り好み生活からきている」という誤った認識から来ているのだと思います。同性愛者の方が同性を好きになったのは「甘え切った人間関係に浸っていたから」が理由ですか?違います。その方の性質がそうであったというだけです。同様にして、野菜嫌いというのも我々の先天的な味覚の個体差から生まれたものなのです。これもまた程度によると思うのですが、野菜が嫌いなのは味がちょっとおいしくないから、とかじゃないのです。もう体が受け付けないのです。野菜嫌いを克服しよう!と思い、自らアスパラを食べたことがありますが、二回食べて二回吐きました。もう抗えません。一生ピザポテトしか食べません。

 

以上の理由により、野菜嫌いを迫害するのは社会的に適切ではないことがわかります。もうやめましょう。平等や多様性を重んじるこの社会の中、野菜嫌いを差別することのない社会へ向けて新たな一歩を歩みましょう。

 

 

追伸

いつも一緒に出掛けた時に飯屋でサラダを食べてくれる鈴木君、ありがとう

 

 

それでも僕らがその明日を掴む理由

どうも、poniyamaです。アニメについて書こうと思います。なぜならアニメが好きなので。

 

本記事では普通に物語のラストシーンをネタバレをするので気を付けてください。

 

今日はアニメや漫画によくある展開について考えていこうと思います。 

 

僕は先日「コードギアス 反逆のルルーシュ R2」というアニメを見ていました。この作品では主人公であるルルーシュが物語後半でラスボスである自分の父親とCの世界と呼ばれる精神世界で対峙することになります。そこでこの父親、シャルル・ジ・ブリタニアが全人類の意識を接続し嘘のない世界を実現する、ラグナレクの接続という計画を実現しようとしていることが判明します。まあ人類補完計画みたいなものですね。それに対しルルーシュは「俺はおまえを、おまえの考えを認めない。/(中略)/ ありのままで良い世界とは、変化がない。生きるとは言わない。思い出の世界に等しい。完結した閉じた世界。俺は嫌だな。/(中略)/ お前たちが言っているのは自分に優しい世界だ!でも、ナナリー*が望んだのは、きっと、他人に優しくなれる世界なんだ!」と言ってシャルルの計画に反抗し、破壊しようとします。

(*ナナリー:ルルーシュの妹、ルルーシュは世界が壊れてもナナリ―が笑える世界を作りたかった)

 

よくある展開です。敵の目的が「人類を完全に一つに統一すること」「優しい夢だけ見ているような世界に閉じこもること」というものです。岸本斉史先生の「ナルト」でもうちはオビト、うちはマダラの計画で無限月読によってすべての人間を幸福な夢(幻術)の中に閉じ込め、痛みの無い世界を造るというものがありました。「天元突破グレンラガン」においても、アンチスパイラルに最後の決戦時に多元宇宙迷宮というそれぞれにとって幸福な多元宇宙に意識を閉じ込められる展開がありました。「テイルズオブベルセリア」ではアルトリウスという男が個よりも全を優先し、争いもないが意識もない"全体"を作り出すことを企みます。(すみませんテイルズはやってないので聞いた話です)

 

そして、様々な「全体化・永遠の夢」の企みに対して主人公達は必ず「痛みを伴ってでも、傷つけ合ってでも、僕らの明日は自分で掴む」という結論を出します。もちろん当たり前です。主人公が「え?夢の中だとあの子とずっと一緒なの?」と揺らいでいたら嫌です。僕もルルーシュの「それでも俺は、明日が欲しい!」やナルトの「眠るのは明日、夢は自分で見る!」のセリフに感動し、自分の明日は自分で掴むという思想に共感して素直に感動して泣きながら見ていました。

 

しかしよく考えるととても難しい問題だと思えます。ルルーシュもナルトも、大きな痛みを背負って歩いてきました。仲間を失い、互いの正義によって相手とすれ違い、傷つけ合う。この連鎖は今まで長く続いてきたものです。もはや原理上逃れられない問題だということを自ら目の当たりにし、理解し、葛藤を重ねてきたはずです。その中、最後にたどり着いた局面にて「完全な幸福な世界・死んだ人間とも同一になれる世界・争い、憎しみ、痛みの無い世界」が提示されたらどうでしょう。

 

もちろん今まで仲間を殺した憎い相手の計画に陥落することなんて許せないでしょう。しかしその問題はその局地的な感情の問題です。提示された世界が今まで失った仲間の魂とまた逢えるものであったら?理解し合えず、傷つけ合った相手にもう刃を向けなくていい世界であったら?僕らはそれでも本当に「自分の明日は自分で掴む」と言うことができるでしょうか。

 

もちろんラスボスが提示する「全体化・永遠の夢」には種類があります。無限月読のように「肉体は敵の手中に収まり好きなようにされるが、意識は幸福な幻を見続ける」ものとラグナレクの接続のように「肉体や個から解き放たれ、すべては同一化、または純粋な意識として接続される」というものです。前者か後者かによって答えが変わることも考えられます。

 

まず前者について考えてみましょう。これは敵の手中に収まることで今まで失ったものがすべて無駄になり、自分だけ都合のいい夢を見続ける、という点で反抗できるかもしれません。今まで失った仲間の想いを裏切ってしまう、その痛みに真摯に向き合いたいという方向性は理解できます。しかし物語の中には一旦夢の中に取り込まれ、夢を体感した上で謎の力によって「これは本当の明日じゃない」と中から幸福な夢を破るタイプのものがあります。この展開はとても考えるのが難しいと言えるでしょう。例えばその夢が質的に現実と遜色ないものであったら「現実」というものを捉えることが難しくなると思います。幸福な世界と争いの果てに敵と対峙する世界は同列に並んでしまいます。死んだアイツ、すれ違ってしまったアイツと肩を組んで笑える世界、それを捨てこの荒廃した争いの極地を選び取れるでしょうか。単にそれは偽物だと言ってしまうのは言葉の上では簡単です。しかし問題なのが、一度「質的に同レベル」のその世界を体感してしまうことです。突飛なことを言えば、戻ってきたこの争いの世界でさえ、脳水槽的な世界の上に成り立っている夢かもしれません。その状況でまた多くの屍と血の上に成り立つこの世界を選び取れるでしょうか、また"本当に選び取るべき"なのでしょうか。

 

また、管理者がいることを問題とすることもできるでしょう。幸福な夢を持続させる存在の持続可能性が有限であれば、そんな存在に僕らの歩みを託すことなんてできない。気づかない瞬間に終わる可能性のある世界なんていらないと宣言することができます。しかしこの方向性も世界の実存問題に突入します。そんなことを疑っていてはそもそも「仲間の死」などの概念すら揺らぐので危険ですが、世界の在り方に疑問を呈する議論であればこのような無限の後退に陥る状態すら現れるのです。

 

次に後者について考えてみましょう。後者の方が厄介です。死者も生者も魂のレベルで繋がり、完全な一つに統一されるということは、今までの道程が無駄になるということもありません。失ったアイツの魂とまた逢える。もう憎しみを向け合うこともしなくてもいい。この状態に抗うことは難しいです。このような敵に対して抗う宣言として多いのは「人とは違うからこそ分かり合おうとできる」「痛みを伴ってこそ人と人は相手のことを考えられる、そして新たな明日を生み出そうとできる」というものです。僕もこのようなセリフには感動することが多いです。なぜならこのセリフは少しの亀裂から大きくすれ違った相手と再び手を取り合うようなシーンの後にくることが多いからです。こういう展開は僕も大好きです。

 

しかし、そのような人の抗えないすれ違い、憎しみ、悲劇の連鎖から彼らは耐え難い痛みを背負ってきたはずです。大切な者を失い、埋めようのない溝に対峙し、捻じれた関係に苦悩したはずです。そんな中、超越的な存在にすべては一つになると言われたらどうでしょうか。それでも「痛みを伴ってでも自らの手でわかり合いたい」と言えるでしょうか。また、"本当にそう言うべき"でしょうか。

 

考えられる方向性としては、自らの痛みを俯瞰視し、「この膨大な試行錯誤こそがヒトという種の前進なんだ。それを捻じ曲げ、ヒトの歩みを止めることは種としての最大の不幸である」と宣言することです。しかしやはり構造そのものを変質させる提案を棄却するには決定打に欠けるようにも感じられます。

 

上記の二種の「征服」への対抗は、やはり快楽主義への耽溺を露悪的に描くことで成立します。そこで我々が対峙する問題は「痛みの無い世界」は悪いものなのか、「偽物の幸福」は悪いことなのか、という点です。夢の無いことを言ってしまえば功利主義的に考えた場合は快楽主義に舵を切ることが我々の真の勝利であるようにも考えられます。

 

もちろん今この瞬間の皆さんに「偽物の幸福に閉じ込められたいか」と問うても否、と答えが返ってくるかもしれません。しかし繰り返すように、アニメの中の彼らは耐え難い苦しみ、戻れない痛み、悲劇の中に居るわけです。そんな中、「征服」の選択肢を前にしているのです。彼らはなぜそれでも「明日」を望んだのでしょうか。

 

この問題は一種のハードプロブレムに接続する問題だと思います。僕はこの場で「征服」に屈することが最善であると主張したい訳でも、彼らの明日への選択が軽薄なものであったと非難したい訳でもありません。アニメの中の彼らの選択は、我々の思っているよりも大きく難しいものであるかもしれないという問題を共有するためにこの記事を書きました。

 

あなたにはこの狂った現実、アニキもナナリーもいないこの腐った現実の中、明日を掴む勇気がありますか?

でもIV号戦車よりも、パンツを見ちゃうでしょ?

どうも、poniyamaです。今日はアニメについて書こうと思います。なぜならアニメが好きなので。

関係ないですが先日「アニメ」と言ったら「No,エァニメィ.」と訂正されました。怖かったです。

 

 

最近ガールズ&パンツァーが何やらよくない方向で話題ですね。今回はそれについてちょっと言いたかったので書こうと思います。

 

よくない方向で話題とはそもそも何なのかということですが、事の発端はこれです。

自衛隊のポスターの女の子の恰好が不適切だとして批判が集中しているというニュースを受けての

「アニメのタイトルが『ガールズ&パンツァー』の時点で少女と下着をテーマにしたアニメなのは明白でありセクハラかつ児童ポルノなのは明らかです」

というツイートです。2012年あたりなら釣り乙で終わって2レスでdat落ちしてそうです(正直本当の出自はこれなのかわかりませんがよく現れるので取り上げます)。この意見(もとい攻撃)がおたく君達の間で、パンツァーだからと言ってパンツと安易に結び付ける頭の方がおかしいと怒りの種になっている訳です。おたく君達はこの「パンツァーと言われたら、下着を想像するのが普通だと思います」という発言を鬼の首を取ったかのように批判し、もはや他のちょっと響きが卑猥な単語を挙げまくる大喜利大会になっています。

 

ここに強烈な違和感があります。この話の本質的な問題は表現規制の問題であってパンツァーがどう聞こえるかではありません。それにそもそも問題となっている自衛隊ポスターのタイアップアニメはガルパンではなくストパン(ストライクウィッチーズ)です。話が完全に怒りとオンラインの断片的な伝播によってグチャグチャに捻じ曲がっているのです。この件に僕の感じる大きなおかしさは大別して二つです。

 

一つ目に、「ガールズ&パンツァーと聞いて下着なんかまったく連想しない、お前の頭が性的に捻じれているだけだ」と声高に叫ぶ多くの意見についてです。え、連想しませんか?だってパンツァーですよ。ドイツ語で戦車を意味する単語がpanzerというのそもそも一般的とは思えません。渋谷でギャル100人にアンケートを取っても正解率はおそらく2%を切ります。というか知っていたとしても「ふむふむ製作陣め、パンツァーという単語を巧みに使っておたく君の耳に残るような響きのタイトルにしたな」と思いませんか?僕はその点はもはや暗黙の了解の部分だと思っていました。こち亀でも両さんが同じようなことを言っていて僕は激しく頷いていました。未視聴時に友人にガルパンを強く勧められた時も「え~?またパンツアニメなんじゃねーの。パンツじゃないから恥ずかしくないんじゃねーの」と言って友人にボコボコに殴られたことがあります。

 

その後僕はガルパンを視聴し、 これが本当のアンツィオ戦です!を見て、劇場版を見て、最終章を劇場で見て、本当に素晴らしいアニメだと改心しました。熱いストーリー展開、魅力的で個性がハッキリしたキャラ、重厚な音響演出、口が裂けてもパンツアニメとは言えません。そしてこれは説明不要の偉大なる水島努監督、多くの名作を手がける脚本家の吉田玲子さん、そして大きな業績のないアクタスの背水の陣として錚々たる顔ぶれを集めた丸山社長、これらの方々の大きな力があって出来上がった素晴らしいアニメです。女性を性的に搾取するおたくの捻じ曲がった性愛の具現化では決してありません。

 

しかしパンツァーって聞いたら最初はえ?パンツァー?ってなりませんか?本当に僕だけですか?

 

二つ目に、問題の重要な部分はパンツがどうというよりも、表現を規制してはいけないという点です。そもそもすべての人が不快にならない表現なんて存在しません。我々が戦うべきなのはアニメキャラがちょっとえっちな恰好をしている事象そのものではなく、自由な表現を規制しようとするその抑圧的な態度そのものです。もちろん全ての表現が許されるわけではありません。罪のない個人を大勢で攻撃することが社会的なアートだと言ってもそれは受け入れられません。

 

じゃあ絵に描かれた女の子がちょっとえっちなのはどうなんだよということですが、我々は熟考していかなければならないことは確かです。しかし、勝手に「よくないもの」を決めて抑圧する姿勢は認めてはなりません。最大限の自由を求め、この日本の肥沃な表現土壌を失わないために考えながら闘っていくのです。

 

 時として誤謬が起こるのが、えっちであるから悪いと言われて、えっちではないと返すこの構造です。本質的に誤りなのは、えっちである部分ではなく、えっちである"から悪い"という部分です。性的搾取と単なる性的表現は極めて似て非なるものだと思います。接続しやすいものであるからこそ、慎重に考えていかなければなりません。

 

 

 

そういえば事件のおおもととなるストライクウィッチーズの話をあまりしていなかったですね。このアニメは「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」というコピーが有名で、、

 

え?「そんなアニメをこの歳になっても見ているお前が恥ずかしい」?

 

そうですか。。。

 

 

可愛いあの子がいない日常の中で生きろ

今日はアニメについて話そうと思います。なぜならアニメが好きなので。

 

 皆さんは日常系って言葉を聴いたことがありますよね。可愛い女の子数人が記号化された環境の中で苦痛も極端な幸福もなく淡々と柔らかい日常をただ過ごしていくあのアニメ群のことです。RPG-7を街中でぶっ放す女の子がいるあらいけいいち先生の「日常」ではありません。僕は日常系のアニメを普通に見ますし、女の子が可愛いし好きです。しかし日常と呼ばれるにはあまりに"非日常的"すぎることがある。僕は今回その話について書こうと思います。

 

「空気系の台頭」

 

 まず日常系ってなんだっけということを少し考えましょう。日常系はかつて空気系という言葉で呼ばれていました。僕のフォロワーさんだと空気系という単語にも馴染みがあると思います(比較的僕のフォロワーさんは年上が多いので)。今ではすっかり日常系という単語に置き換わってしまいましたが、空気系とはゼロ年代前半から流行り始めた上記のような女の子の起伏のない日常を描くアニメを表す単語です。まずはこの空気系アニメが如何にして生まれたのかということを考えましょう。

 

端的に言うと、共通前提的な世界設定に強度が無くなったことが要因として考えられます。「世界とはこうであり、こう行動していくことが正しい、成熟である。」という思想は90年代後半にはもう完全に失われていたと思います。「何か」があり、それを信じて行動するという考えが効力を失ったのにはバブル崩壊オウム真理教事件、果てには9.11などの世界を揺るがす―言ってしまえば価値観そのものを逆転させる―ような事件があったからと言うこともできるでしょう。これを最も強く表しているのは新世紀エヴァンゲリオンでしょう。

 

碇シンジ君は、世界に何も信じられるものがない、何かを信じて行動すると間違う(大きな痛みを生む)という濃霧のように不透明な現状にただ拒絶を示すことしかできません。これは完全に当時の閉塞的な空気感の表象だと思います。エヴァンゲリオンの話をするとそれだけで何千字にもなってしまうのでこの程度にしておきますが、つまるところ"当時の僕ら"は不透明な世界の中に信じられる物語を立てることが困難になっていった、または疲弊していったのだと思います。

 

そこで現れたのが物語などなくただキャラクターの"在る姿"を享受できる空気系だったのだと思います。空気系の中では大きな構造としての社会は存在せず、あるのはキャラが存在するための記号化されたフィールドと小共同体のみです。僕達はその"養殖の日常"を、成長痛を感じることなく読み込むのです。

 

「日常を過ごすということ」

 

 さて前置きがながくなりましたが本題に入ろうと思います。前述した流れを整理すると、僕らは物語も成長痛もない温室の日常を可愛さと共に享受するために日常系と呼ばれるアニメを見ます。彼女らは放課後にお茶をしながらバンドを組んだり、生徒会室で下ネタを言ったり、実態の存在しない部活を設立したりしていきます。僕らはこれらの作品群を違和感なく日常系と呼び、そこに日常を見出します。

 

しかし僕はそこに何か一つ隔たりがあるようにも感じました。それはその日常が"誰の"日常なのかということです。まずは一作実例を挙げてみます。空気系黎明期の代表的な作品と言えば2002年放送開始の「あずまんが大王」でしょう。これは天才で飛び級してきたちよちゃんをとりまく同級生たちのゆる面白い日常を描いた作品です。ここに存在する日常は学校の中、どこにでもあるような小共同体の起伏のない時間の流れとして描かれます。僕はこのような作品に自己投影し、そのようなゆるい日常を享受するでしょう。この日常は彼女らの日常で、僕の日常です。

 

もう一作品は最近のものから、2014年放送開始の「ご注文はうさぎですか?」を挙げてみましょう。これは下宿先であるラビットハウスで働くことになったココアちゃんが、オーナーの孫であるチノちゃんのもと、他可愛らしい面々と不思議なウサギ、ティッピーと喫茶店の中での幸せで華やかな日常を送っていく作品です。これも可愛らしい女の子が物語も痛みもない日常を送るという点で日常系であると言えるでしょう。

 

しかしどうでしょうか、僕らはラビットハウスに住み込みで働いてもいないし木組みの家と石畳の街に引っ越してきてもいません。彼女たちと一緒に楽しく過ごすことはできません、残念でした。あなたはチノちゃんでもリゼちゃんでもありません。

 

今のは冗談ですがこれは単なる世界設定の現実合致性についての言及ではありません。僕がここで指摘したいのはこの"日常"の作動する機構についてです。前者のあずまんが大王では日常は学校という共通文法を用いて僕たちが読み込むために設定されていました。また、言い換えるのであれば、キャラクター達は日常という終わりなき経過を作動させるために存在していました。本質的なのはキャラクターではなく、そこで共同体が経験する"時間"(≒その共同体のゆるいつながりを実現する日常という力場)です。

 

しかし後者のごちうさでは、ラビットハウスはキャラクターの存在する場所を提供するに過ぎません、僕らは"チノちゃん達"が存在することを必要とし、彼女らそのものの可愛さを享受するために日常という機構を作動させます。やや言葉遊びになってしまっているような気がしますが、要に順番が違うのです。

 

日常という構造を読み込むために彼女らがいるのか、彼女らが可愛いからその享受のために日常というシステムを作動させなければならないのか、という点です。つまりごちうさの"日常"は僕らの日常ではなく、"ラビットハウスにある日常"、ということです。これは僕は大きな違いだと考えています。この提起は"こっちが日常系でこっちは日常系じゃない"という排斥論のためのものではありません。あくまでも性質がことなるものが混在しているということを明確にしておきたかったのです。

 

柊かがみという友達」

 

 僕がこの記事で主として言及しようと思ったのが2007年放送の「らき☆すた」という作品です。この作品は陵桜学園高等部でゆるい日常を過ごす女子高生達を描いた作品です。この作品は先述した"本質的なのは日常という力場"を体現している作品だと思います。

 

僕はらき☆すたが本当に好きなのですが、なぜ本作にこんなに惹かれるのだろうと考えていました。キャラデザインが可愛い、演出がいい、"名作とされている”から好きというスノッブ、様々な可能性を考えてみましたがどうにも僕の感情に明確に結びつく論理は浮かんできませんでした。そこで僕はらき☆すたが他の最近の日常系とどう違うのかを考えることにしてみました。そこでらき☆すたが、"僕らの日常"を享受できる作品であると思い至りました。その起点となる部分を紹介します。

 

17話冒頭のシーンを見てみましょう。犯罪者の自宅からマンガやゲームが数千点押収されたというありがちな"おたく叩き"的な報道が挿入され、主人公こなたの親友である柊かがみはそれに対して「なんかまたこなたみたいな人が出たわよね~」と反応します。また、こなたに対して「だいたい、いい大人になったらゲームやマンガに熱あげないもんじゃないの」とも発言します。これは僕はすごいと思いました。今でこそアニメは多くの人が見ていて、アニメの中でも"おたく賛美"的な作品が増えました。しかし宮崎勤の事件から20年近く経ち、"萌え"の流行から2年経った2007年でも、この2018年から見たらまだおたくという生き物が世間に馴染んではいなかったと思います。つまりその時の世相的にはかがみの反応は"普通"なのです。なんとなくおたくというのは変な生き物だと思っていて、おたく叩きこそしないものの過剰な擁護ポーズもとらない、等身大の友人の姿としてかがみは描かれます。ここにこの作品の本質的な要素があると僕は感じました。

 

自分にはサブカルチャーの趣味があり、その点とは関係なく学校に自分の友人は確かに存在し、特定の1点で強くつながっているということはないゆるい共同体、日常を過ごしていく。そして当時の"僕ら"もまた、自分は彼女らのように自分はサブカルチャーに傾倒した人間であり、その点に限らず友人を持ち、和やかに過ごしていきたかったという欲望が深層にあったはずです。このように「その日常を自分の日常として享受し、精神性を同化させ消費していく」のです。もちろんらき☆すたのキャラクター達は強烈にデフォルメされ、所謂キャラ萌えの激しい作品ではあります。その面を否定するつもりはありません。ただ、らき☆すたにはキャラ消費型の日常アニメとは違い日常消費の構造があることは明示しておきたいと思います。

 

らき☆すたで特徴的なのが最終回です。これは放送当時多くの反響を呼んだといいますが、この最終回にもらき☆すたの性質もとい日常系の特質を見ることができると考えています。最終回、文化祭でみんなでチアリーディングしようということで、登場キャラで集まり、ダンスの練習などを行い、キャラは結託していきます。そしてラストシーン、文化祭当日に彼女らは舞台に立ち、いざ本番__というところで物語は幕を閉じます。「え、終わり?キャラの華々しい踊りは?」となりますがこれがまさに日常系的であると言えます。この作品で僕らが享受したかったのは彼女らが過ごす"僕らの日常"であって、劇的な学園物語でも、キャラのショータイムでもないのです。

 

文化祭という非日常の"物語"は描かず、作品は日常で幕を閉じる。日常系という作品の性質を考えた時にとても美しいエンドだと思いました。もちろん文化祭を作中で扱った日常系作品は数多く存在します。繰り返しますがこの記事は一意のレッテルを張る排斥論ではありません。ただらき☆すたという作品は日常を"物語"へ昇華することはせず、日常のままに終わりを迎えました。この点において日常系という精神性への示唆的なものを感じました。

 

「可愛いあの子がいない日常の中で生きろ」

 

 日常という力場はキャラの行動によって生み出されるものではなく、キャラの共同体、そのキャラが何かをするわけでもなく過ごすことによって発生します。萌えのためにキャラクターが突飛な行動をとったり、過剰な反応をしたりというのはキャラ萌え日常アニメの文法であり、僕たちの日常はそこにはありません。僕たちは柊かがみを見ながら、柊かがみのいない日常を、終わりなく過ごしていくのです。

のらきゃっとの顔バレに見るVtuberの立ち位置

今日、インターネットのオタク達の間でバーチャルYouTuberなるものが熱を持ち始めている。今日はそれについて書こうと思う。

 

昨年の12月中頃であろうか、とあるユーザーのブログに端を発し、バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberのねこます氏が爆発的な人気を博した。ねこます氏は自分のようなおっさんでも美少女になれることを証明したい、そして日夜世知辛さに身を削る同士を救いたいという動機で動画を投稿しているようだ。そのスピリッツに多くのオタクが感銘を受け、美少女の外見に男性の地声という特異なスタイルにも関わらず多くの支持を集めている。

 

そんなねこます氏の登場に起因するアマチュアバーチャルユーチューバー(以下Vtuber)戦国時代は数多の新規参入と古参クリエイターの発掘を引き起こした。(以前からキズナアイ氏などは人気を得ていたがここではアマチュアVtuber(及び仮想キャラコンテンツ)について述べる)

 

その古参クリエイターの中で私が言及したいのがのらきゃっと氏についてだ。氏はねこます氏の登場以前からニコ生で密かな人気があったキャラクター(この表現が適切であるかはさておき)であり、このVtuberムーブメントに乗りVtuber活動を始めた、優雅な立ち振る舞いや甘美なセリフ、聴き触りの良い合成音声を用いたスタイルで人気の猫耳型モデルのVtuberである。

 

そんなのらきゃっと氏であるが、先日生放送中にクリエイター(中の人)の表情のトラッキング画面が表示されてしまい、顔バレしてしまうという事件が起きた。仮想美少女というコンテンツの性質上、通常の配信者の顔バレとは一線を画す致命的な事件になると思われた。

 

しかしのらきゃっと氏の中身が(けなす意味などの他意は無く)ただのオッサンということが明るみになったにも関わらず、ファンの間には"これで安心してガチ恋できる"、"これはバレではなく生産者表示"、"好感度上がった"などの好意的な意見が散見された。

 

私はこの現象を見てVtuberの人気はただの"美少女コンテンツ"とは異質なものであると感じた。この一件は、アマの美少女Vtuberは、オタク向けに商業化された偶像とは一線を画しているもので、オタクを救うためのオタクがオタク同志の共通認識を抽出した末に生み出した"不純物のない仮想女性像"であるべきだという事を如実に表しているのではないかと考えた。

 

その人気に介在する感情は実存の女性を好きになるものとは完全に乖離していて、どこまでもキャラクタライズされ、しかし精神的に近い位置に存在するというVtuber特有の性質に惹かれるものなのではないかと考えた。

 

昨今のオタクは"受け身"、"弱い"と揶揄されることが多いが、以上に述べた事象についてもその一端を見ることができるかもしれない。仮想美少女に恋するオタクは過去幾年の歴史の中で常に存在したが、"オタクが美少女側にまわる"ことによって、より精神的な安寧が得られるコンテンツとなった。と、ねこます氏の人気、のらきゃっと氏の事件から推察できる。

 

長々と書いてきたが、この流れは情報化社会に伴うコンテンツの在り方の多様化、及びVR、AR、MRの技術の商業応用の好例として捉えることができるだろう。

10年の歴史を経て一大コンテンツとなったVOCALOIDからも読み取れるが、技術の発展がホームユーザーのクリエイティビティを刺激するのは火を見るより明らかである。このムーブメントがネットコンテンツとして定着し、VR技術の促進へ繋がることを切に願うばかりである。