ぽに平野

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可愛いあの子がいない日常の中で生きろ

今日はアニメについて話そうと思います。なぜならアニメが好きなので。

 

 皆さんは日常系って言葉を聴いたことがありますよね。可愛い女の子数人が記号化された環境の中で苦痛も極端な幸福もなく淡々と柔らかい日常をただ過ごしていくあのアニメ群のことです。RPG-7を街中でぶっ放す女の子がいるあらいけいいち先生の「日常」ではありません。僕は日常系のアニメを普通に見ますし、女の子が可愛いし好きです。しかし日常と呼ばれるにはあまりに"非日常的"すぎることがある。僕は今回その話について書こうと思います。

 

「空気系の台頭」

 

 まず日常系ってなんだっけということを少し考えましょう。日常系はかつて空気系という言葉で呼ばれていました。僕のフォロワーさんだと空気系という単語にも馴染みがあると思います(比較的僕のフォロワーさんは年上が多いので)。今ではすっかり日常系という単語に置き換わってしまいましたが、空気系とはゼロ年代前半から流行り始めた上記のような女の子の起伏のない日常を描くアニメを表す単語です。まずはこの空気系アニメが如何にして生まれたのかということを考えましょう。

 

端的に言うと、共通前提的な世界設定に強度が無くなったことが要因として考えられます。「世界とはこうであり、こう行動していくことが正しい、成熟である。」という思想は90年代後半にはもう完全に失われていたと思います。「何か」があり、それを信じて行動するという考えが効力を失ったのにはバブル崩壊オウム真理教事件、果てには9.11などの世界を揺るがす―言ってしまえば価値観そのものを逆転させる―ような事件があったからと言うこともできるでしょう。これを最も強く表しているのは新世紀エヴァンゲリオンでしょう。

 

碇シンジ君は、世界に何も信じられるものがない、何かを信じて行動すると間違う(大きな痛みを生む)という濃霧のように不透明な現状にただ拒絶を示すことしかできません。これは完全に当時の閉塞的な空気感の表象だと思います。エヴァンゲリオンの話をするとそれだけで何千字にもなってしまうのでこの程度にしておきますが、つまるところ"当時の僕ら"は不透明な世界の中に信じられる物語を立てることが困難になっていった、または疲弊していったのだと思います。

 

そこで現れたのが物語などなくただキャラクターの"在る姿"を享受できる空気系だったのだと思います。空気系の中では大きな構造としての社会は存在せず、あるのはキャラが存在するための記号化されたフィールドと小共同体のみです。僕達はその"養殖の日常"を、成長痛を感じることなく読み込むのです。

 

「日常を過ごすということ」

 

 さて前置きがながくなりましたが本題に入ろうと思います。前述した流れを整理すると、僕らは物語も成長痛もない温室の日常を可愛さと共に享受するために日常系と呼ばれるアニメを見ます。彼女らは放課後にお茶をしながらバンドを組んだり、生徒会室で下ネタを言ったり、実態の存在しない部活を設立したりしていきます。僕らはこれらの作品群を違和感なく日常系と呼び、そこに日常を見出します。

 

しかし僕はそこに何か一つ隔たりがあるようにも感じました。それはその日常が"誰の"日常なのかということです。まずは一作実例を挙げてみます。空気系黎明期の代表的な作品と言えば2002年放送開始の「あずまんが大王」でしょう。これは天才で飛び級してきたちよちゃんをとりまく同級生たちのゆる面白い日常を描いた作品です。ここに存在する日常は学校の中、どこにでもあるような小共同体の起伏のない時間の流れとして描かれます。僕はこのような作品に自己投影し、そのようなゆるい日常を享受するでしょう。この日常は彼女らの日常で、僕の日常です。

 

もう一作品は最近のものから、2014年放送開始の「ご注文はうさぎですか?」を挙げてみましょう。これは下宿先であるラビットハウスで働くことになったココアちゃんが、オーナーの孫であるチノちゃんのもと、他可愛らしい面々と不思議なウサギ、ティッピーと喫茶店の中での幸せで華やかな日常を送っていく作品です。これも可愛らしい女の子が物語も痛みもない日常を送るという点で日常系であると言えるでしょう。

 

しかしどうでしょうか、僕らはラビットハウスに住み込みで働いてもいないし木組みの家と石畳の街に引っ越してきてもいません。彼女たちと一緒に楽しく過ごすことはできません、残念でした。あなたはチノちゃんでもリゼちゃんでもありません。

 

今のは冗談ですがこれは単なる世界設定の現実合致性についての言及ではありません。僕がここで指摘したいのはこの"日常"の作動する機構についてです。前者のあずまんが大王では日常は学校という共通文法を用いて僕たちが読み込むために設定されていました。また、言い換えるのであれば、キャラクター達は日常という終わりなき経過を作動させるために存在していました。本質的なのはキャラクターではなく、そこで共同体が経験する"時間"(≒その共同体のゆるいつながりを実現する日常という力場)です。

 

しかし後者のごちうさでは、ラビットハウスはキャラクターの存在する場所を提供するに過ぎません、僕らは"チノちゃん達"が存在することを必要とし、彼女らそのものの可愛さを享受するために日常という機構を作動させます。やや言葉遊びになってしまっているような気がしますが、要に順番が違うのです。

 

日常という構造を読み込むために彼女らがいるのか、彼女らが可愛いからその享受のために日常というシステムを作動させなければならないのか、という点です。つまりごちうさの"日常"は僕らの日常ではなく、"ラビットハウスにある日常"、ということです。これは僕は大きな違いだと考えています。この提起は"こっちが日常系でこっちは日常系じゃない"という排斥論のためのものではありません。あくまでも性質がことなるものが混在しているということを明確にしておきたかったのです。

 

柊かがみという友達」

 

 僕がこの記事で主として言及しようと思ったのが2007年放送の「らき☆すた」という作品です。この作品は陵桜学園高等部でゆるい日常を過ごす女子高生達を描いた作品です。この作品は先述した"本質的なのは日常という力場"を体現している作品だと思います。

 

僕はらき☆すたが本当に好きなのですが、なぜ本作にこんなに惹かれるのだろうと考えていました。キャラデザインが可愛い、演出がいい、"名作とされている”から好きというスノッブ、様々な可能性を考えてみましたがどうにも僕の感情に明確に結びつく論理は浮かんできませんでした。そこで僕はらき☆すたが他の最近の日常系とどう違うのかを考えることにしてみました。そこでらき☆すたが、"僕らの日常"を享受できる作品であると思い至りました。その起点となる部分を紹介します。

 

17話冒頭のシーンを見てみましょう。犯罪者の自宅からマンガやゲームが数千点押収されたというありがちな"おたく叩き"的な報道が挿入され、主人公こなたの親友である柊かがみはそれに対して「なんかまたこなたみたいな人が出たわよね~」と反応します。また、こなたに対して「だいたい、いい大人になったらゲームやマンガに熱あげないもんじゃないの」とも発言します。これは僕はすごいと思いました。今でこそアニメは多くの人が見ていて、アニメの中でも"おたく賛美"的な作品が増えました。しかし宮崎勤の事件から20年近く経ち、"萌え"の流行から2年経った2007年でも、この2018年から見たらまだおたくという生き物が世間に馴染んではいなかったと思います。つまりその時の世相的にはかがみの反応は"普通"なのです。なんとなくおたくというのは変な生き物だと思っていて、おたく叩きこそしないものの過剰な擁護ポーズもとらない、等身大の友人の姿としてかがみは描かれます。ここにこの作品の本質的な要素があると僕は感じました。

 

自分にはサブカルチャーの趣味があり、その点とは関係なく学校に自分の友人は確かに存在し、特定の1点で強くつながっているということはないゆるい共同体、日常を過ごしていく。そして当時の"僕ら"もまた、自分は彼女らのように自分はサブカルチャーに傾倒した人間であり、その点に限らず友人を持ち、和やかに過ごしていきたかったという欲望が深層にあったはずです。このように「その日常を自分の日常として享受し、精神性を同化させ消費していく」のです。もちろんらき☆すたのキャラクター達は強烈にデフォルメされ、所謂キャラ萌えの激しい作品ではあります。その面を否定するつもりはありません。ただ、らき☆すたにはキャラ消費型の日常アニメとは違い日常消費の構造があることは明示しておきたいと思います。

 

らき☆すたで特徴的なのが最終回です。これは放送当時多くの反響を呼んだといいますが、この最終回にもらき☆すたの性質もとい日常系の特質を見ることができると考えています。最終回、文化祭でみんなでチアリーディングしようということで、登場キャラで集まり、ダンスの練習などを行い、キャラは結託していきます。そしてラストシーン、文化祭当日に彼女らは舞台に立ち、いざ本番__というところで物語は幕を閉じます。「え、終わり?キャラの華々しい踊りは?」となりますがこれがまさに日常系的であると言えます。この作品で僕らが享受したかったのは彼女らが過ごす"僕らの日常"であって、劇的な学園物語でも、キャラのショータイムでもないのです。

 

文化祭という非日常の"物語"は描かず、作品は日常で幕を閉じる。日常系という作品の性質を考えた時にとても美しいエンドだと思いました。もちろん文化祭を作中で扱った日常系作品は数多く存在します。繰り返しますがこの記事は一意のレッテルを張る排斥論ではありません。ただらき☆すたという作品は日常を"物語"へ昇華することはせず、日常のままに終わりを迎えました。この点において日常系という精神性への示唆的なものを感じました。

 

「可愛いあの子がいない日常の中で生きろ」

 

 日常という力場はキャラの行動によって生み出されるものではなく、キャラの共同体、そのキャラが何かをするわけでもなく過ごすことによって発生します。萌えのためにキャラクターが突飛な行動をとったり、過剰な反応をしたりというのはキャラ萌え日常アニメの文法であり、僕たちの日常はそこにはありません。僕たちは柊かがみを見ながら、柊かがみのいない日常を、終わりなく過ごしていくのです。