ぽに平野

インターネット

白人、黒人、野菜嫌い人

世の中はとても良い方向に動いています。差別を無くし、偏見を正し、各人が自分らしく生きられる世界を作ろうと皆が考えています。

 

性別も男女の二値ではなく多様な状態が存在し、自身の性別が何であろうと好きになる相手は自由であり、信仰する神は制限されず、表現や思想も抑圧してはいけないという考えが社会に伝播し始めています。人と人が違うのは当たり前のことであり、その多様性を認め合って生きていくのです。素晴らしいじゃないですか。

 

こんな良い流れ、かつての社会にあったでしょうか?いえ、なかったと思います。僕はなんて素晴らしい世の中になってきたんだと目頭を熱くしながら生活しておりました。

 

この素晴らしい世界で気持ちよく生活していたある日のこと、僕が「野菜食べられないんだよね」と言ったところ「この歳にもなって野菜食べられないのはみっともない」と返されました。

 

え?

 

いや、待ってください、ひどい攻撃です。野菜を食べられないことが悪いことなんですか?野菜は健康に良く、食べなければならないという価値観を押し付けられ、僕の野菜を食べることができないという個性を否定されました。傷つきました。ツイッターに4枚スクショで長文を投稿します。

 

冗談です。でも野菜嫌いってなぜか人権ない感じですよね。これがとても不思議です。野菜嫌いが許されない要素を検討していこうと思います。おそらく野菜嫌い糾弾の論拠は大別すると二つだと思います。「栄養バランスが偏り健康を害す」「会食などの席で出された食事を食べられないのは失礼」

 

まず前者についてです。程度にもよるとは思いますがこの問題はテクノロジーで破壊できると思います。まず、完全に野菜を何も食べられないならまだしも特定の野菜が食べられればそれのローテーションで栄養を得ることができます。現に僕もほうれん草や白菜やキノコは調理してあれば大丈夫なのでそれで生きていけそうです。そして、全てダメだったとしても野菜ジュースとマルチビタミン剤、完全代替食(COMPやsoylent)などがあるのでそれで生きていけると思います。仮に世界がぶっ壊れて野生の中で生きていかなければならなくなった場合は、そのような製品に頼れなくなるかもしれません。やばい、どうしよう、野菜が食べられないがために、、、いえ、その時は野菜が食べられないとか以前の致命的な外圧によって死ぬと思います。

 

次に後者についてです。これは少し難しいです。コース料理などを頂く席で自分だけ「このサラダ食べられましぇ~~んw部長代わりに食べてw」とか言っていたら店を追い出され食だけでなく職まで失うかもしれません。しかしそこで非難すべきは野菜を嫌いであるという性質ではなく、野菜を食べられない故に場を乱すことです。スマートに断ったり、表情を無にして喉の奥に押し込む技術さえあれば野菜嫌いという性質そのものは問題ではありません。そもそも、個人の性質上食べられないものを食べさせ、嫌がったら失礼という考えが根源的な問題です。男性恐怖症の女性が業務上の男性を含む会食で心労を負うことについて「男が怖いお前が悪い」というのは大問題になると思います。我々も、「野菜が嫌いなのに、コース料理でメニューが決まっていて大変だったね」と労われるくらいが正当でしょう。

 

 そもそもこの乖離は「野菜嫌いは甘えた選り好み生活からきている」という誤った認識から来ているのだと思います。同性愛者の方が同性を好きになったのは「甘え切った人間関係に浸っていたから」が理由ですか?違います。その方の性質がそうであったというだけです。同様にして、野菜嫌いというのも我々の先天的な味覚の個体差から生まれたものなのです。これもまた程度によると思うのですが、野菜が嫌いなのは味がちょっとおいしくないから、とかじゃないのです。もう体が受け付けないのです。野菜嫌いを克服しよう!と思い、自らアスパラを食べたことがありますが、二回食べて二回吐きました。もう抗えません。一生ピザポテトしか食べません。

 

以上の理由により、野菜嫌いを迫害するのは社会的に適切ではないことがわかります。もうやめましょう。平等や多様性を重んじるこの社会の中、野菜嫌いを差別することのない社会へ向けて新たな一歩を歩みましょう。

 

 

追伸

いつも一緒に出掛けた時に飯屋でサラダを食べてくれる鈴木君、ありがとう