ぽに平野

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それでも僕らがその明日を掴む理由

どうも、poniyamaです。アニメについて書こうと思います。なぜならアニメが好きなので。

 

本記事では普通に物語のラストシーンをネタバレをするので気を付けてください。

 

今日はアニメや漫画によくある展開について考えていこうと思います。 

 

僕は先日「コードギアス 反逆のルルーシュ R2」というアニメを見ていました。この作品では主人公であるルルーシュが物語後半でラスボスである自分の父親とCの世界と呼ばれる精神世界で対峙することになります。そこでこの父親、シャルル・ジ・ブリタニアが全人類の意識を接続し嘘のない世界を実現する、ラグナレクの接続という計画を実現しようとしていることが判明します。まあ人類補完計画みたいなものですね。それに対しルルーシュは「俺はおまえを、おまえの考えを認めない。/(中略)/ ありのままで良い世界とは、変化がない。生きるとは言わない。思い出の世界に等しい。完結した閉じた世界。俺は嫌だな。/(中略)/ お前たちが言っているのは自分に優しい世界だ!でも、ナナリー*が望んだのは、きっと、他人に優しくなれる世界なんだ!」と言ってシャルルの計画に反抗し、破壊しようとします。

(*ナナリー:ルルーシュの妹、ルルーシュは世界が壊れてもナナリ―が笑える世界を作りたかった)

 

よくある展開です。敵の目的が「人類を完全に一つに統一すること」「優しい夢だけ見ているような世界に閉じこもること」というものです。岸本斉史先生の「ナルト」でもうちはオビト、うちはマダラの計画で無限月読によってすべての人間を幸福な夢(幻術)の中に閉じ込め、痛みの無い世界を造るというものがありました。「天元突破グレンラガン」においても、アンチスパイラルに最後の決戦時に多元宇宙迷宮というそれぞれにとって幸福な多元宇宙に意識を閉じ込められる展開がありました。「テイルズオブベルセリア」ではアルトリウスという男が個よりも全を優先し、争いもないが意識もない"全体"を作り出すことを企みます。(すみませんテイルズはやってないので聞いた話です)

 

そして、様々な「全体化・永遠の夢」の企みに対して主人公達は必ず「痛みを伴ってでも、傷つけ合ってでも、僕らの明日は自分で掴む」という結論を出します。もちろん当たり前です。主人公が「え?夢の中だとあの子とずっと一緒なの?」と揺らいでいたら嫌です。僕もルルーシュの「それでも俺は、明日が欲しい!」やナルトの「眠るのは明日、夢は自分で見る!」のセリフに感動し、自分の明日は自分で掴むという思想に共感して素直に感動して泣きながら見ていました。

 

しかしよく考えるととても難しい問題だと思えます。ルルーシュもナルトも、大きな痛みを背負って歩いてきました。仲間を失い、互いの正義によって相手とすれ違い、傷つけ合う。この連鎖は今まで長く続いてきたものです。もはや原理上逃れられない問題だということを自ら目の当たりにし、理解し、葛藤を重ねてきたはずです。その中、最後にたどり着いた局面にて「完全な幸福な世界・死んだ人間とも同一になれる世界・争い、憎しみ、痛みの無い世界」が提示されたらどうでしょう。

 

もちろん今まで仲間を殺した憎い相手の計画に陥落することなんて許せないでしょう。しかしその問題はその局地的な感情の問題です。提示された世界が今まで失った仲間の魂とまた逢えるものであったら?理解し合えず、傷つけ合った相手にもう刃を向けなくていい世界であったら?僕らはそれでも本当に「自分の明日は自分で掴む」と言うことができるでしょうか。

 

もちろんラスボスが提示する「全体化・永遠の夢」には種類があります。無限月読のように「肉体は敵の手中に収まり好きなようにされるが、意識は幸福な幻を見続ける」ものとラグナレクの接続のように「肉体や個から解き放たれ、すべては同一化、または純粋な意識として接続される」というものです。前者か後者かによって答えが変わることも考えられます。

 

まず前者について考えてみましょう。これは敵の手中に収まることで今まで失ったものがすべて無駄になり、自分だけ都合のいい夢を見続ける、という点で反抗できるかもしれません。今まで失った仲間の想いを裏切ってしまう、その痛みに真摯に向き合いたいという方向性は理解できます。しかし物語の中には一旦夢の中に取り込まれ、夢を体感した上で謎の力によって「これは本当の明日じゃない」と中から幸福な夢を破るタイプのものがあります。この展開はとても考えるのが難しいと言えるでしょう。例えばその夢が質的に現実と遜色ないものであったら「現実」というものを捉えることが難しくなると思います。幸福な世界と争いの果てに敵と対峙する世界は同列に並んでしまいます。死んだアイツ、すれ違ってしまったアイツと肩を組んで笑える世界、それを捨てこの荒廃した争いの極地を選び取れるでしょうか。単にそれは偽物だと言ってしまうのは言葉の上では簡単です。しかし問題なのが、一度「質的に同レベル」のその世界を体感してしまうことです。突飛なことを言えば、戻ってきたこの争いの世界でさえ、脳水槽的な世界の上に成り立っている夢かもしれません。その状況でまた多くの屍と血の上に成り立つこの世界を選び取れるでしょうか、また"本当に選び取るべき"なのでしょうか。

 

また、管理者がいることを問題とすることもできるでしょう。幸福な夢を持続させる存在の持続可能性が有限であれば、そんな存在に僕らの歩みを託すことなんてできない。気づかない瞬間に終わる可能性のある世界なんていらないと宣言することができます。しかしこの方向性も世界の実存問題に突入します。そんなことを疑っていてはそもそも「仲間の死」などの概念すら揺らぐので危険ですが、世界の在り方に疑問を呈する議論であればこのような無限の後退に陥る状態すら現れるのです。

 

次に後者について考えてみましょう。後者の方が厄介です。死者も生者も魂のレベルで繋がり、完全な一つに統一されるということは、今までの道程が無駄になるということもありません。失ったアイツの魂とまた逢える。もう憎しみを向け合うこともしなくてもいい。この状態に抗うことは難しいです。このような敵に対して抗う宣言として多いのは「人とは違うからこそ分かり合おうとできる」「痛みを伴ってこそ人と人は相手のことを考えられる、そして新たな明日を生み出そうとできる」というものです。僕もこのようなセリフには感動することが多いです。なぜならこのセリフは少しの亀裂から大きくすれ違った相手と再び手を取り合うようなシーンの後にくることが多いからです。こういう展開は僕も大好きです。

 

しかし、そのような人の抗えないすれ違い、憎しみ、悲劇の連鎖から彼らは耐え難い痛みを背負ってきたはずです。大切な者を失い、埋めようのない溝に対峙し、捻じれた関係に苦悩したはずです。そんな中、超越的な存在にすべては一つになると言われたらどうでしょうか。それでも「痛みを伴ってでも自らの手でわかり合いたい」と言えるでしょうか。また、"本当にそう言うべき"でしょうか。

 

考えられる方向性としては、自らの痛みを俯瞰視し、「この膨大な試行錯誤こそがヒトという種の前進なんだ。それを捻じ曲げ、ヒトの歩みを止めることは種としての最大の不幸である」と宣言することです。しかしやはり構造そのものを変質させる提案を棄却するには決定打に欠けるようにも感じられます。

 

上記の二種の「征服」への対抗は、やはり快楽主義への耽溺を露悪的に描くことで成立します。そこで我々が対峙する問題は「痛みの無い世界」は悪いものなのか、「偽物の幸福」は悪いことなのか、という点です。夢の無いことを言ってしまえば功利主義的に考えた場合は快楽主義に舵を切ることが我々の真の勝利であるようにも考えられます。

 

もちろん今この瞬間の皆さんに「偽物の幸福に閉じ込められたいか」と問うても否、と答えが返ってくるかもしれません。しかし繰り返すように、アニメの中の彼らは耐え難い苦しみ、戻れない痛み、悲劇の中に居るわけです。そんな中、「征服」の選択肢を前にしているのです。彼らはなぜそれでも「明日」を望んだのでしょうか。

 

この問題は一種のハードプロブレムに接続する問題だと思います。僕はこの場で「征服」に屈することが最善であると主張したい訳でも、彼らの明日への選択が軽薄なものであったと非難したい訳でもありません。アニメの中の彼らの選択は、我々の思っているよりも大きく難しいものであるかもしれないという問題を共有するためにこの記事を書きました。

 

あなたにはこの狂った現実、アニキもナナリーもいないこの腐った現実の中、明日を掴む勇気がありますか?